被災地石巻で次兄と見たもの

被災していない私が、このような手記を書くことに一抹の不安があります。正しく伝えられるだろうか、誤解を招くことはないだろうか…。
あまり上手にまとめられた気がしませんが、見てきたありのままをとりとめもなく記そうと思います。

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次兄が石巻に住んでいます。誰にとっても忘れられない日になった3.11、私は甥を1人津波に奪われました。
兄は時計の文字盤を作る仕事をしています。兄は工場の2階で命拾いしました。窓の外に真っ黒いそそり立った波が見えた時には、「もうダメだ。」と思ったと言います。亡くなった甥は、揺れが収まって何かを取りに自転車で数分の自宅へ向かい、途中で津波にのまれてしまいました。幸いなことに遺体を見つけることができました。死因は「ごく短時間での溺死」だったそうです。

甥の死亡を宮城県警のサイトで見つけたのが、あの日から8日目のこと。その時はまだ兄の安否はわかっていませんでした。それもそのはず、工場で助かってそのままそこに留まり、避難所に身を寄せていなかったのですから。甥が助からず、希望を完全に捨てていた矢先、次姉のもとに1本の電話が。仮設の電話から兄が、諳(そら)んじていた姉の自宅の電話番号に無事を伝えてきたのです。私は直接聞いていませんし、連絡を取る手段もなく半信半疑…でも、生きていた!あの日から9日目のことでした。

翌日、兄から再度連絡が。9年前に亡くなった義姉の親戚が岩手から訪ねてくれ、携帯電話を置いて行ってくれたといいます。私もやっと直接話ができました。すぐにも飛んで行きたかったけど物資輸送が優先だし、国道4号をひたすら北上では…現地はガソリンが全くないだろうから、行くなら持参してあちらに迷惑をかけないようにしないと…。兄も、来るな来るなの一点張り。駆けつけたい気持ちを抑えて、物流が落ち着くのを待つことにしました。後で聞けば、携帯電話を駆使して何をしていたか…銀行に電話しまくって、従業員の方の給与手続をしていたそうで。
兄らしいというか、何というか。

Google が開設した "Person Finder" に、私は兄の捜索を書き込んでいました。それを見た兄の会社の取引先(盛岡)の担当者が、私のところへ連絡をくれました。何でもあの日の翌々日に打ち合わせを予定していたそうで、自分たちも大変なのに気にかけていただきました。ありがたいことです。

4月2日0時 長兄のところへ集まり、ワンボックスに携行缶を積んで東北道で北を目指します。さすがに空いていて、4時半過ぎには、石巻に着きました。
三陸道 石巻港インターで降りると、そこにはパトカーが。しかしパトカーは泥まみれで、きっと避難する車でごったがえす中、最後迄その整理に当たっていて…津波に呑まれてしまっていないといいのですが。

夜明け前なので、先に兄の自宅へ向かいます…が、そこで育った兄の次男が道がわからないほどに、辺りは変わり果てていました。暗 がりの中、一行はしばらく言葉が出ず呆然と立ち尽くしていました。民家の中に車が数台竿立ち、そんなのは当たり前。激しい流れに足廻りがねじ切れてしまっている車もいます。津波が運んだものが津波のルートを暗に語っていました。くさびをギュウギュウ押し込んだように、車が我れ先にと集まっている行き止まり。あったはずのご近所の家がなく、ベタ基礎の新しい家は,基礎丸ごとどこかから流されてきていました。兄の家とそのまわりは残っています…
でも、何となく互いが寄りかかってつっかえ合ってまだ建っている感じです。どこから流れて来たのか、スナックの屋根と建物の一部が兄の家に刺さっていました。津波が残して行った海の砂は、ヘドロ化して足をすくわれそうです。屋根の上には流されてきた木が。屋根の上に生えているかのようです。


兄は電気がない中、日が落ちたら寝て陽が出たら起き出す生活をしていましたから、ほどなくして兄のいる工場で再会となりました。
工場の2階は奇跡的に無傷。私の知っているまさにそのままです。
窓を開け、会議用の椅子に腰掛けて遠くの風景を見ると、そこには見慣れた風景が広がって、何かありました?というくらい。ところが立ち上がると…何もかもがメチャメã 兄のいる地域は、救援物資が比較的届きやすい場所だったようです。食料も、避難所にいなくても分けて頂けるほどで、兄からは「食べ物は足りているから」と行く前から言われていました。が、長兄は…栄養のあるものを食べていないだろうからと、コンビーフを密かに持参していました。コンビーフといえば、私より上の世代の昔のおご馳走です。一同、思わず顔を見合わせて吹き出してしまいました。ほんの一瞬、コンビーフで場が和みました。


「陽が差さないで、どんよりじめじめしていたほうがいい。寒いくらいでちょうどいい。」兄が言いました。実感だと思います。兄の工場のすぐ近所には、日本製紙の石巻工場があります。津波の後に火災も発生、壊滅的な被害を受けました。報道で、雑誌の紙が生産できず月刊誌などの発行部数に影響が出るだろう、と言っていたあの工場です。製紙工場のロール紙がゴロゴロ流され、溶け出した紙が汚泥に混ざり、海沿いの食品加工工場の魚系の臭い、火事の後の臭いに船の重油やその他油の混ざり合った臭い、そして磯のにおい。ちなみに兄の工場には小さいながらもメッキ加工プラントがありましたが、「(電解槽の中身は)みんな流しちゃったよ…」。
桜前線も北上し、被災地も穏やかな季節を迎えています…ヘドロ化した津波の残存物が、臭いを増す気がします。気温が上がれば、蒸発して乾燥するでしょう。粉塵による呼吸器への影響も心配です。


4月11日に電気が通るので、兄は石巻に戻ると言っていました。ところが4月7日の大きな余震の影響で、インフラ整備が一からやり直しになってしまい、復旧した水道も×、電気もしばらく×。現地から電話でそう連絡があったそうです。
亡くなった甥は、車を買い替える手続きを進めていました。仙台の販売店で契約したので、納車前の車が流されることはなかったのですが、肝心の主が、帰らぬ人になりました。兄はせっかくなので(兄の車は流され、いい加減離れた所で見つかったそうです)その車に乗ることにしたそうです。これ迄甥が乗っていた車を下取りに出す契約にしていたそうですが、その車は工場の裏手で竿立ちになっています。「下取りしてくれるのかな?」と兄。

改めて、兄の自宅へ行きました。明るい中で見るそこは、改めてめちゃくちゃでした。2階の襖についた水の跡は、2階の中頃まで津波が襲ったことを物語っていました。押入のに下段にしまっていた兄の服はすべて水に浸かり、今は押入上段に収まっていた長男の服を着ているそうです。ソファーや家具など家の中にあったものは、ことごとく家の外に。仏壇にももれなく水が入りましたが、義姉の位牌だけは見つけることができました。

現地では、本当にたくさんの自衛隊員が活動していました。石巻は人口も多く、津波で大きな被害が出ているので、捜索活動・がれき撤去に従事する隊員をそこここで目にしました。自衛隊員の過労死が報じられましたが、どの人もそれはそれは疲れの色が濃く、本当に支援している側なのか心配になる程でした。きっと使命感だけをエネルギーに、不眠不休で任務に当たっているんだと思います。

土地柄、ベース(在日米軍基地)関係のミニユーザーがちらほら、います。今回、トモダチ作戦 "Operation Tomodachi" に参加した人から、彼の体験を聞く事ができました。
支援物資が日本の規格と合わないから、と食糧も足りていない避難所を目前に持ち帰らざるを得なかった物もあったそうです。しかもそれが福島近海から展開した部隊が持ち帰るとなると、放射性物質の検査をして引っかかってしまった物は廃棄しなくてはならないのですから。こんな時に何やってんだ?!一部報道でもやっていましたが、行く先を決めずにヘリで発って、道路状況などの悪そうな避難所へゲリラ的に物資を届けるようなこともしてくれたそうです。通常なら事前に「何をどれだけいつ届ける」と連絡があるのに、突然外にヘリの音。米軍の物資の中には、子どものおもちゃなどもあるそうです。例によって規格に合う合わないでモメると、「ヘリの調子が悪くて緊急着陸した、負担を減らすのに積んでいた物資を全部降ろした。」そんな言い訳?もしたそうです。

ある友人は日本人ですが、ベース(彼は陸軍)の中で輸送に携わる仕事をしていて、トモダチ作戦の物資の流れそれは手厚い、そして行き届いたものでした。支援申し出にしても、物資にしても日本の側が結構、と言ったケースも数多いそうで、まさにこんな時に何やってんだ!?です。

ある人から、子供服の古着を託されていました。甥達の母校が避難所になっており、そこへ直接持ち込むことにしました。そこは1階に津波の被害を受けながらも、避難所として機能している小学校です。「直接渡してほしい」と小さい子供の居る2階に通され、そこで見たのは…乳飲み子を抱え、疲れ果てたお母さん達の姿でした。

石巻を離れる義姉の墓へも立ち寄りました。墓石やら墓誌やらがずっこけていましたから、戻せるものは戻して道が混む前に石巻を後にしました。午前10時前には、三陸道を仙台に向かって走っていました。来る時には暗くて判らなかった車窓からの景色に改めて唖然としました。仙台市内では、海沿いを走る三陸道→仙台東部道路のラインまで津波が襲ったと聞きました。


15日(金)石巻へ戻った兄。18日現在電気も水道もまだ。工場の建物は残ったものの、行政の方針もあるので、自分だけどうこうすることもできないと、今後のことはまだ白紙。情報を得るために役所へ通う毎日だといいます。何もかもがなくなってしまった被災地。地域によって温度差がおおきいと思われますが、なかなか復興といっても長い時間がかかるでしょう。離れた所に暮らす私達にできること、それは忘れないことだと思います。興味本位ではなく、世の中に流されてではなく、日本人としてこのかつてない国難にどう向き合っていくかを考えるべきだと強く思います。
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